作文と育児の時間で
子どもをよくよく 観察すると 作文も育児も 子どもが何かになる 経過だということが 見える瞬間があります。 3人の男児といる 自身の子育てでは 子どもが話しかけてくる 行為そのものが、子どもにとっては すでに、何かになっています。 電車の運転手だったり ロケットで月に行く 途中だったり ひとりだけはぐれている 赤色のクレヨンだったり 作文も、書く行為のなかで 書き手が何かになりかわる という意味では 子育ての時間で見る 子どもとの行動といっしょです。 ただ、育児の時間で見せる 「何かになっている」子どもは とてもプリミティブです。 いっぽうで、文章の書き手となり 「何かになっている」ときの子どもは もはやモダン。言葉を駆使する 立派な「近代の個人」となっています。 この子どものなかの「原始と近代」を埋める 繊細な作業を自然に行うのが 母語であると、そう思うときが 育児のなかで多くなっています。 母語をめぐる作文と育児。 日常でさらに深く見守って いきたい風景と感じています 国語の学童 よみかきのもり |
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